こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだ、という了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や、世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は、未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象であり、そのために哲学的な時間論の対象となるわけである。逆に、主観的経験について客観的なデータをとる手法が確立したなら、現在哲学的時間論の対象となっている問題の少なくとも一部は、哲学を離れて心理学の一分野となるであろう。客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈である。これもまた自然科学が不得手とする領域である。
2007年03月13日
犬の散歩と私の散歩
自然科学と哲学は(そもそも19世紀に至るまでは、自然科学を指す言葉として「自然哲学」という言葉が使われていたことからも分かるように)、伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は、伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。また近代に至っては、実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場し、さらに19世紀以降には、目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化する、という営みが科学の中心となってきた。一方「哲学的」な部分では、昔も今も、観察や実験が果たす役割は限定的である。例えば、時間について考察する哲学者は、同じ問題を扱う物理学者とは違い、観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照し、それを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである(もっとも、物理学の哲学の一分野としての時空論においては、哲学者と物理学者のより密接なコラボレーションが実現している)。
こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだ、という了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や、世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は、未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象であり、そのために哲学的な時間論の対象となるわけである。逆に、主観的経験について客観的なデータをとる手法が確立したなら、現在哲学的時間論の対象となっている問題の少なくとも一部は、哲学を離れて心理学の一分野となるであろう。客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈である。これもまた自然科学が不得手とする領域である。
こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだ、という了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や、世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は、未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象であり、そのために哲学的な時間論の対象となるわけである。逆に、主観的経験について客観的なデータをとる手法が確立したなら、現在哲学的時間論の対象となっている問題の少なくとも一部は、哲学を離れて心理学の一分野となるであろう。客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈である。これもまた自然科学が不得手とする領域である。
早い者勝ち
時代や状況によらず、思索により独自に共通の高み(結論の類型)を獲得することは哲学に見られる顕著な特徴である。後世の著作物の中に太古の思索の形跡が見つけられたしても、その著作家が先哲の思索を継承したのか、独自に着想を得てその高みに至ったのかは即断できない。一方で思索は極めて属人的ないとなみであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に失われる。思索の継承と橋頭堡を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。現代哲学では哲学が「産業化」してきている。そこでは哲学は個々の思索というよりは集団的な思考の営みという性格が強くなっており、偉大な先哲の議論ではなく同時代の同じ問題関心を有する哲学者の議論に対する論及がもっぱらとなっている。
他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。すくなくとも近代哲学においては、デカルト以来、たゆみなく懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や常識に信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。
他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。すくなくとも近代哲学においては、デカルト以来、たゆみなく懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や常識に信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。
車検の時期が近づいた
更に広義には、哲学は、思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり、選ばれたりした思想、立場、信条を指す。例えば、「子育ての哲学」、「会社経営の哲学」、などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。
また、哲学は、個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統、信仰、神話、伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観、世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。このような感受性や世界観は、必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。
なお、日本語「哲學」(希哲の学)という訳語は、明治時代初期に元津和野藩士西周 (啓蒙家)(にしあまね)によって作られた日本語の単語である。「philosophy」(ギリシア哲学)の訳として「賢哲を希求する」という意味で最初「希哲學」を当てていたが、最終的に「哲學」に固定した。これはそれまでギリシア語「Φιλοσοφία」の音訳しかなかった西洋世界にもない意訳であり画期的なことであった(ただし、このことにより日本では哲学への誤解が生じた)。なお西周はほかに主觀・客觀・概念・觀念・歸納・演繹・命題・肯定・否定・理性・悟性・現象・藝術(リベラルアーツの訳語)・技術などの西欧語のそれぞれの単語に対応する日本語を創生している。
なお、この日本生まれの熟語は、中国語にも移入された。中国語でも「philosophy」に相当する語は「哲学」である。
また、哲学は、個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統、信仰、神話、伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観、世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。このような感受性や世界観は、必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。
なお、日本語「哲學」(希哲の学)という訳語は、明治時代初期に元津和野藩士西周 (啓蒙家)(にしあまね)によって作られた日本語の単語である。「philosophy」(ギリシア哲学)の訳として「賢哲を希求する」という意味で最初「希哲學」を当てていたが、最終的に「哲學」に固定した。これはそれまでギリシア語「Φιλοσοφία」の音訳しかなかった西洋世界にもない意訳であり画期的なことであった(ただし、このことにより日本では哲学への誤解が生じた)。なお西周はほかに主觀・客觀・概念・觀念・歸納・演繹・命題・肯定・否定・理性・悟性・現象・藝術(リベラルアーツの訳語)・技術などの西欧語のそれぞれの単語に対応する日本語を創生している。
なお、この日本生まれの熟語は、中国語にも移入された。中国語でも「philosophy」に相当する語は「哲学」である。
オープンしました
水素(すいそ、hydrogen)は、原子番号 1 の元素。元素記号は H。非金属元素のひとつ。元素の中で最も軽く、また宇宙で最も数が多い。地球上では水や有機化合物の構成要素として存在する。
一般に「水素」という場合は、水素の単体である水素分子(水素ガス) H2 を示すことも多い。水素分子は常温では無色無臭の気体で、軽く、非常に燃えやすいといった特徴を持つ。自然界で水素分子の形態で存在するのは天然ガスの中にわずかにある程度である。水素分子は亜鉛やアルミニウムなどの金属に、希塩酸を加えることで発生する。
このような意味での哲学は、より具体的には、とりわけ古代ギリシア、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみて、そこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。
また、諸学問の扱う主題について、特にこうした思考を用いて研究する分野は、哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。
一般に「水素」という場合は、水素の単体である水素分子(水素ガス) H2 を示すことも多い。水素分子は常温では無色無臭の気体で、軽く、非常に燃えやすいといった特徴を持つ。自然界で水素分子の形態で存在するのは天然ガスの中にわずかにある程度である。水素分子は亜鉛やアルミニウムなどの金属に、希塩酸を加えることで発生する。
このような意味での哲学は、より具体的には、とりわけ古代ギリシア、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみて、そこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。
また、諸学問の扱う主題について、特にこうした思考を用いて研究する分野は、哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。
頭の体操
ジュース(Juice)とは果汁飲料のこと。日本国内では「不当景品類及び不当表示防止法」(景品表示法)により「果汁100%のもの以外は、『ジュース』という名称で販売できない」ことになっている。従って粉末ジュースの名称も使用できない。ただし、糖類・はちみつなどの添加は許されている場合がある。果汁と野菜汁のみを原料とする飲料のうち、果汁が50%以上のものも、野菜ミックスジュースと表記することができる。いずれの場合も、果汁・野菜汁は濃縮還元でもよい。
トマトジュース、にんじんジュースについては別に規定があり、トマト果汁100%のもののみをトマトジュースと表記できる。ただし、食塩の添加は認められている。にんじんジュースも同様である。トマトジュースの場合も、果汁は濃縮還元でもよい。「野菜ジュース」についての定義はないが、一般的には野菜汁のみ、または若干の食塩を添加した飲料で、果汁100%のものをいう。
また、「果汁飲料」という本来の意味のほか、あくまで俗称であるが、コーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンク全般(果汁の含有率問わず)をジュースと呼ぶことがある。これは、かつては果汁飲料くらいしかソフトドリンクがなかったことに起因すると思われる。
化学においてのアルコール (alcohol) とは、炭化水素の水素原子をヒドロキシ基で置き換えた物質の総称である。ベンゼン環の水素原子を置換したものはフェノールと呼ばれ、アルコールと区別される。
最初にアルコールとして認識された物質は、エタノールである。この歴史的経緯により、特に断らず単純に「アルコール」と言った場合はエタノールのことを指す。
アルコール類は、生体内での主要代謝物の1つであり、生物体に多種多様なアルコール体が広く見いだされる。特に酵母は、その代謝によりエタノールを産生するほか、少量であるが多種多様のアルコール類も産生し、酒の香味成分として利用されている。
蝋はセタノールなど高級アルコールであり、脂肪(中性脂肪)は、多価アルコールのグリセリンと脂肪酸とのエステルである。
そして、糖類もアルコール体である。特にカルボニル基を失った糖であるエリトリトールやペンチトール、ヘキシトールなどは、糖アルコールと呼ばれる。
トマトジュース、にんじんジュースについては別に規定があり、トマト果汁100%のもののみをトマトジュースと表記できる。ただし、食塩の添加は認められている。にんじんジュースも同様である。トマトジュースの場合も、果汁は濃縮還元でもよい。「野菜ジュース」についての定義はないが、一般的には野菜汁のみ、または若干の食塩を添加した飲料で、果汁100%のものをいう。
また、「果汁飲料」という本来の意味のほか、あくまで俗称であるが、コーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンク全般(果汁の含有率問わず)をジュースと呼ぶことがある。これは、かつては果汁飲料くらいしかソフトドリンクがなかったことに起因すると思われる。
化学においてのアルコール (alcohol) とは、炭化水素の水素原子をヒドロキシ基で置き換えた物質の総称である。ベンゼン環の水素原子を置換したものはフェノールと呼ばれ、アルコールと区別される。
最初にアルコールとして認識された物質は、エタノールである。この歴史的経緯により、特に断らず単純に「アルコール」と言った場合はエタノールのことを指す。
アルコール類は、生体内での主要代謝物の1つであり、生物体に多種多様なアルコール体が広く見いだされる。特に酵母は、その代謝によりエタノールを産生するほか、少量であるが多種多様のアルコール類も産生し、酒の香味成分として利用されている。
蝋はセタノールなど高級アルコールであり、脂肪(中性脂肪)は、多価アルコールのグリセリンと脂肪酸とのエステルである。
そして、糖類もアルコール体である。特にカルボニル基を失った糖であるエリトリトールやペンチトール、ヘキシトールなどは、糖アルコールと呼ばれる。

