自然科学と哲学は(そもそも19世紀に至るまでは、自然科学を指す言葉として「自然哲学」という言葉が使われていたことからも分かるように)、伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は、伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。また近代に至っては、実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場し、さらに19世紀以降には、目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化する、という営みが科学の中心となってきた。一方「哲学的」な部分では、昔も今も、観察や実験が果たす役割は限定的である。例えば、時間について考察する哲学者は、同じ問題を扱う物理学者とは違い、観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照し、それを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである(もっとも、物理学の哲学の一分野としての時空論においては、哲学者と物理学者のより密接なコラボレーションが実現している)。
こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだ、という了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や、世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は、未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象であり、そのために哲学的な時間論の対象となるわけである。逆に、主観的経験について客観的なデータをとる手法が確立したなら、現在哲学的時間論の対象となっている問題の少なくとも一部は、哲学を離れて心理学の一分野となるであろう。客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈である。これもまた自然科学が不得手とする領域である。